「呼吸する塊」 


  僕は狭い部屋の中で膝を抱えて座っていた。家賃が安いという理由だけで、トイレと洗面所が共同の階建て木造の下宿屋に住んでいる。ここの住人は皆、無口で、隣に住んでいる人とは会話どころか挨拶もしないし、何をしている人かも知らない。聞こえてくる音といえばテレビの音と、夜中、夢にうなされている呻き声ぐらいのものだ。


  一階と二階の玄関は別々になっていて、僕が住んでいる一階は玄関を上がるとすぐに廊下があり、部屋が四つ並んでいる。廊下の中間あたりに共同の水道があり、朝、歯を磨くときは、ほかの人が歯を磨く音が完全に聞こえなくなって、部屋に帰った音を聞いてから、部屋の外へ出る。多分、僕が水道を使っているときもほかの部屋の人も同じことを考えているのだろう。よほどの偶然がない限り、住人と顔をあわせることはない。トイレは廊下の奥にある。二階には上がったことはないが、多分同じ構造だろう。もし大きい地震でもあれば、一階に住んでいる人間は、間違いなく二階に押しつぶされるであろう。しかも住人同士、何の面識も無いから誰も救助に来ないかもしれない。


  各部屋には鍵がついているが、少し力を入れて蹴飛ばせば戸ごと外れてしまうような頼りないものだ。僕はその四つの部屋の奥から二番目に住んでいる。


  玄関の引き戸がガラリと開く音がして、廊下をギシギシと歩く音がした。隣の部屋の住人が帰ってきたみたいだ。鍵をガチャガチャと回して、部屋の戸を開けた時、二人ぐらいの人間がドカドカと靴を履いたまま上がってくる音がした。隣の住人は急いで戸を閉めたようだが、そいつらは容赦なく戸を蹴破り、部屋の中へ入り、大声で言った。


「てめえ、ふざけんじゃねえぞ」


「お願いだ。見逃してくれ」


  何かトラブルがあったみたいだ。僕は息を殺してじっとしていた。暫く二人の怒鳴り声と隣の住人の悲鳴が飛び交った。そして、そのまま二人は隣の住人を何回も殴ったり蹴ったりしているようだ。下宿屋全体が揺れている。今、この事件の音を聞いているのは、たぶん僕だけだと思う。


  隣の住人の悲鳴が聞こえなくなって、更に殴る音が続いた後、急に静かになった。僕の心臓の音が急に大きくなった気がした。隣から小さな声が聞こえてきた。


「おい、死んだんじゃねえか」


「まずいな」


「誰かに聞かれてねえだろうな」


「どうせこんなところに住んでる連中はゴミみたいなもんだから、ばれても金さえ渡しときゃだいじょうぶだ」


「金をくれてやるのももったいねえよ。ぶっ殺しゃいいんだ」


  僕は口の中に溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。二人は更に小声で何か話している。僕は同じ姿勢でじっと耐えた。五分ぐらいが一時間以上に感じる。やがて二人は廊下に出ると、僕の部屋の前で止まり、戸をドンドンと叩いた。僕は息を止めた。


「誰かいるか」


  暫く僕の部屋の前に立って様子を伺っているようだ。


「いねえみたいだな」


  各部屋の戸をすべて叩いてから一人が言った。


「いいから早く逃げようぜ」


  二人は足早に去っていった。


  ようやく息をすることができたが、膝を抱えている両手の指は固まって、なかなか離れず、暫くの間、同じ姿勢のまま動けなかった。


© 2005 田中スコップ

もどる
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送