一言
バイク免許その5 2007.03.26
 
 1980年代初めの頃、全国的に自動二輪の限定解除の試験は合格率が低いようでした。

 その当時は現在より多くの若者がバイクに乗っていました。しかしそのほとんどが中型バイクです。どうして大型バイクの免許は教習所で取得できなかったのか疑問ではありましたが、その当時のシステムだったのでしようがありません。危険な大型バイクの免許を簡単に取らせてしまうと暴走族が増えるとでもいうのでしょうか。

 私はバイク免許の練習を始めるにあたってジュースの大瓶を何本か買ってきて飲み干しました。1リットルのジュースはその当時ガラスのビンが主流でペットボトルはあまりありませんでした。本当は道路工事で使われているような三角コーンが良かったのですがバイクの後ろにくくりつけて移動するには大きすぎます。

 私はそのガラスのビンを束ねてバイクにくくり、近くの公園の駐車場に行きました。迷惑にならないよう自動車があまり止まっていない駐車場の端のほうでまず作業を始めました。あらかじめスラローム間隔の長さに結び目をつけておいた長い紐の端をバイクのタイヤで踏んでピンと伸ばします。そして学校の教壇から拝借してきたチョークで路面に印を付け、ビンをそこに置いてスラロームの準備完了です。

 紐にはもう一つ役割があります。その紐には15mの距離にも印をつけています。それは駐車場の白いラインを一本橋に見立てて低速走行課題の練習をするためです。駐車場のラインにその紐を使ってチョークで印をつけて一本橋走行の準備も出来ました。しかし時間を計る人がいないのでいくら距離を測っても肝心のタイムがわかりません。

 結局スラロームはなるべく速く、一本橋はなるべく遅くというアバウトな練習を始めました。平日なのに私は何をやっているのでしょうか。全く暇な学生がやることはよくわかりません。それでも練習を重ねていくうちに大分スラロームがスムーズにこなせるようになりました。

 特別課題だけ練習したのでは片手落ちです。コース内での安全走行も頭に叩き込んでおかなければいけません。今はどうなのか分かりませんがその当時の大宮試験場は比較的自由にコース内に入る事ができたので試験が実施されていない早朝に試験コースを歩いて回ります。自堕落な生活を送っている割には信じられない早起きです。このエネルギーを学業に向ければもっとましな人生が送れたかもしれません。

 私は検定5回目にしてやっとスラローム課題に進むことができました。このスラロームを抜けると急制動の課題で終わりです。今まで合格者を見た事がなかったのですが、もしかすると自分が初の合格者ととなるかもしれないと思うと期待に胸が膨らみます。

 私は軽やかにスラロームを走り抜けました。そして次の課題に進めるかどうか試験官の指示を待ちました。

「○○番、出発点に戻ってください」

 試験官の無情な言葉が聞こえました。ああまた駄目か。どこが悪いのかを聞くと、バイクのバンパーがパイロンに接触したということでした。自分では気づきませんでしたが、そう言われるとそうかもしれません。試験中止のジャッジを下された以上、次の課題をあきらめて帰るしかないのです。その日も合格者無しでした。

 類は友を呼ぶというのでしょうか。私がそうやって活動していると、匂いを嗅ぎつけたのか同じ大学に限定解除友達ができました。そいつは中型免許を持っていたのですがクラッチ付きのミニバイクしか持っていません。しかし彼は夜にファミレスのバイトをして小遣いを稼いでいるので私よりは金銭的に余裕があります。

 ある日のこと私が大学の駐輪場にいると一台の大型バイクが近づいてきました。それは大宮の試験場で使われているものと同じCB750Fでした。そして乗っているのはまぎれもなくその友達でした。

 彼は自慢げに私の目の前でバイクを止め、ヘルメットを脱ぎました。

     ……次回に続く……


 © 2007 田中スコップ 路上のゴム手
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