一言
学習障害 2006.11.12

 1980年代初めの頃、私は地元の普通科高校を卒業しました。その高校は卒業者の大半が大学に行く進学校でした。

 思えば学習障害を患っているとしか思えないこの私が勉強についていけず赤点ばかりを取っていたのに卒業できたのは不思議でした。

 制御の利かない私の頭の中は授業中でも妄想によって常に別の世界に飛んでいたので、授業内容が記憶されるわけがありません。いかに重要な世界史等の授業を受けても、顔が前を向いているだけでした。

 度々、授業の内容を本気で聞こうとしました。しかし授業そっちのけで「本気で聞け、本気で聞け」と頭の中でお経のように唱えているだけで、全然授業内容が頭に入ってきません。目を皿のようにして先生の方を見ていましたが、先生の髪型や服に付いた糸くずに気を取られているだけで肝心の授業を聞いているわけではありません。じっと見つめられていた先生はさぞ気持ちが悪かったことでしょう。

 いつも授業が始まって暫くすると頭の中で音楽が鳴り始めます。そしてフィギュアスケートで大開脚をした女子選手がそのまま股間をスケートリンクにくっつけて猛スピードで滑っていくといったような妄想が涌いてきます。股間が霜焼けになって後で痒くなったらどうするのだといらぬ心配をしたりします。

 授業中といえど私の頭は自分の世界に入っていき、段々と現実から離れていきます。当然私が開いている教科書のページがほかの人と違っているので、現在どこまで進んでいるのかわからず不意に当てられても慌てて隣の人に聞く始末です。

 私は勉強をする意欲がないのではなく頭脳をうまくコントロールできなかっただけなのです。授業が終わっても宿題や翌日の準備物等を聞き逃しているので忘れ物がやたらと多く、しまいには忘れ物の恐怖感により不必要な教科書やノートまでカバンに詰めて学校に通うようになりました。

 下宿に帰って私は教科書をカバンから出してみるものの、すぐに他の事を考えてしまうので宿題などできません。用事もないのにフラフラと自転車で出かけてしまいます。あてどもなく街を彷徨い、腹が減るとスーパーに行き夕飯になりそうなものを買って帰ります。テレビも持っていなかったのでラジカセで音楽を聴きながら夕飯を食います。

 腹が満たされると宿題をしなければと思うものの焦るだけで何もしません。読み終わったはずのバイク雑誌を読んだり寝転がって天井板の節目を見たりして肝心な勉強が手につきません。宿題さえすれば安心して眠れるはずなのに時間だけが過ぎてゆきます。ダラダラと遅くまで起きていますが結局何もせず寝てしまい、翌朝登校前に少し宿題を始めるのですが到底間に合いません。

 重いカバンを持って通学する私は、ほとんど空に近いペッタンコのカバンを持って学校に通う同級生を見てそんなに持ち物が少なくても大丈夫なのかと思いました。しかし心配しなければいけないのは自分の方です。いかに重いカバンを持って学校に行っても宿題をしていないので肩身が狭く、その上、朝に宿題をしようと出した教科書を下宿に忘れて登校しています。

 忘れ物をしないように教科書を全部カバンに入れている筈なのに肝心な教科書を忘れては授業になりません。重いカバンはただ重いだけでした。

 高校時代はその繰り返しでした。私は下宿で一人住まいなので勝手に学校を休んでも誰も咎める者がいません。しかし一度でもズル休みをするとそのまま行かなくなって退学してしまいそうなのが怖かったのです。高校を辞めても社会に出る勇気がなく、とにかく出席だけはしようと思いました。

 教室の片隅で勉強に置いていかれた私が一人、授業中に黙ったまま妄想を膨らませています。同じクラスの生徒からは段々と成績が離されていきます。定期テストでも順位をつける学校の方針だったので通知表にも順位が書いてあります。三年生の一学期の終わりにはとうとう私より成績が悪い者がクラスの中ではいなくなってしまいました。

 成績が良い連中に囲まれ、勉強の内容がわからなくなった私は会話についていけません。授業中先生に当てられても返答ができず、そのうちに先生方は私を授業中に当てる事がなくなりました。先生方も勉強ができない者にかまってはいられないのか、学校の方針が勉強しない奴には構うなという暗黙の決まりでもあったのでしょうか、どちらにせよ授業中に私が発言をする事がなくなりました。

 もちろん赤点の者には再テストが行われたり、補習授業等での救済措置はありました。しかし私の頭の中が焦点の定まらない状態だったので何度補習授業を受けても内容が一向に理解できません。先生も難関校への進学率を上げるため私のような落ちこぼれに合わせた内容の授業はしていません。私もどこから勉強をやりなおせばいいのかわからず、手のつけられない状況になり余計に何もできなくなってしまいました。

 そのような悲惨な状況であっても陸上部でクラブ活動をしていた頃は楽しかったのですが、三年生の六月ぐらいから周囲がクラブ活動どころではない雰囲気になりました。先生達は通常のカリキュラムを猛スピードで終わらせ、授業はすべて受験を目的にした授業に変わっていきました。補習授業も増え、やむなくクラブ活動から私の足が遠のいてしまいました。

 その結果、運動も勉強も何もせず、バイクの免許も取り上げられたまま卒業までの時間をただひたすら潰している自分がいたのでした。

 校内では私の口数が極端に少なくなってしまいました。朝、学校に行って帰るまで何も言わない日もありました。下宿に帰っても自分ひとりなので、時々ブツブツと独り言を呟くぐらいです。もし留年して高校時代が伸びると耐え切れずに辞めてしまったかもしれません。

 時は流れて三学期も二月に入り、すべての授業が補習授業になりました。教室内は受験に出払った者で空席が目立つようになりました。私も駄目で元々と思い数校受験しました。そして私は受験が終わると合格していようがしていまいが補習授業はどうでも良くなって学校に行かなくなりました。何もしていないのに疲れてやる気が起きなくなっていたのです。

 私はあまりの成績の悪さに担任からいつ留年を言い渡されるかと思いビクビクしていました。

 しかし不思議と成績の如何に関係なく押し出されるように卒業させられてしまいました。出席日数が足りていたのであまり心配しなくてよかったようです。ヤケを起こして休まなくて良かったと思う反面、高校を中退していたら違った人生で成功を収めて勝ち組になっていたかもしれません。

 しかし現実には今までの結果として今の自分がここにいるだけです。もしもあの時どうしたこうしたと思ってもタイムマシンでもない限り過去は変えようがありません。ただ私が高校を卒業していてもしていなくても気が弱く情けないオトボケ野郎に変わりは無いと思います。学歴によって基本的な性格が変わるとは思えません。どんなに高学歴でもバカはバカです。

 数校受けた大学の中にも奇跡的に私を拾ってくれた学校があり、結局、高校を卒業した年の四月からは大学生になってしまいました。

 一人で行く東京観光ツアーを兼ねた受験旅行の顛末はまた次の機会に……。乞うご期待。



 © 2006 田中スコップ
もどる
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送