一言
つり革 2006.05.04

 友達のアパートから自分が住んでいる下宿に帰るときのことです。

 最寄の駅はたまたま始発の駅でした。その時は終電の時間でもなく、かといって通勤時間でもない中途半端な夜の時間帯でした。

 駅は閑散としていて、私の他には人影は見当たりません。この話もかなり昔の記憶で書いているので、地下鉄だったか、私鉄だったか、駅名さえも忘れてしまいましたがホームは地下にあった駅でした。地下なので、駅の外の音も聞こえてきません。私がその閑散としたホームで待っていると、地下のトンネルの暗闇から、「ゴー」という音が段々と大きくなってきて電車が現れ、ホームにすべりこんで来ました。

 始発の駅なので電車はここで折り返し運転です。この辺に住んでいる人でしょうか、パラパラと人が降りてきました。そして駅の階段にすべての人が消えていきました。私は誰もいなくなった電車に乗り込んで、広々とした長椅子に腰かけ、窓枠に沿って両手を広げてくつろいだ格好をしました。電車が混んでいたら出来ないことをしているんだと思うと、段々と気が大きくなってきました。

 発車まではまだ時間もあり、私は車内を見回しました。幸いまだ誰もこの電車に乗っていません。かねてから思っていて恥ずかしくて出来なかったことが、もしかしたらこの機会にできるかもしれないと思い、私は席を立ち、車両の端に移動してつり革を持ちました。

 その当時は体重も軽く、体力もあったので、多少は自信がありました。それは今、私が名づけた「秘技、つり革渡り」です。といっても、なんのことはない、ただつり革にぶら下がって、電車の中を移動するだけです。

 私はさっそくつり革にぶら下がりました。そしてぶら下がったまま次のつり革に移動して行きます。なかなか調子がいいです。出入り口の所はつり革がなかったので、一度着地して歩いて移動し、再度座席があるところでまたつり革にぶら下がります。私は次々とつり革を渡っていきました。

 このままこの車両のつり革を制覇するぞと意気込んでおりましたが、突然、後ろのほうからドアが開く音が聞こえました。この電車の乗務員らしき制服を着た人が、車内に忘れ物がないか点検に歩いている様子でした。私は慌てて、床に足を着け、つり革から手を離し、座席に座りました。

 私は怒られるかなと思いました。しかしその人は私が「つり革渡り」をしていたのを見ていた筈なのに、私に向かって注意もせずにテキパキと網棚等の点検をして次の車両に移動していきました。なんだかバツが悪いので「つり革渡り」はやめました。それから乗客も何人か乗り込んできました。

 間もなく、何事も無かったかのように電車は発車しました。
 
 © 2006 田中スコップ
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